ゾンビのような財政論議

科学の世界でも、世の中でも、線形論理性の価値が相対的に低下しているような気がする。いや、低下すべきではないか。線形論理性とは、パッとみ誰にでも理解できる形の話である。要するに、話されて「なるほどね」と思えるもの(なるほどと思ったからといってその話が現実的かどうかは別の話である)。生物の話で言うと、人間の細胞はこうなっていて、核とかミトコンドリアとかゴルジ体とかがこうして浮いている。何とかから出た化学物質が何とかに運ばれて云々。これは生物学の基礎知識を覚えてから話を聞けば、なるほど論理的だ、と思える。しかし、この種の細胞の話を延々と繰り返していったって、人間という生命が説明できるわけではない。これを難しい言葉で「合成の誤謬」と言うことは、一定レベル以上の世界なら人口に膾炙している(なぜ「誤謬」などとわざわざ難しい言葉のままにしているのか、考えてみよう)。

官僚の答弁や裁判の判決文にこれが多い。こうこうこう、だからこうと持ってくる。財政の話になると、労働生産性がどうとか、規模の経済がどうとか、小難しい経済学まで持ってくるので、なおさら聞いた人は、なるほど、と思う(判決文の場合は、法律が難しくて、途中で諦めて納得する)。しかし、説明と実態が一致しているかどうかは分からない。そもそも、細胞の話にしても、経済学の話にしても、それはモデルにすぎない。生物や経済におけるモデルとは、実はほとんど死んだものである。生きているモデルもあるが、モデルをつなげていくとすぐに死ぬ(モデルとは現実の世界を有意なもれを残さずに線形化したもの、と専門的には説明されるが、仮に一個のモデルが有意なもれをもたなかったとしても、2個モデルをつなげると必ず有意なもれが生じる。世の中に言われているモデル的説明は、モデルを合成することで生じる有意なもれを無視しているのである。これで全体が構成できるわけがない)。形の上では説明がついていても、結論が不当なことはいくらでもある。結論が不当というか、話全体が生きていない。今の日本の財政をみれば分かる。あれ、今まで社会は合理的に進んできたように見えたけど、そうじゃなかったのね。もともと線形ではない複雑な世界を、無理に線形にして、そこからこぼれたものを無視してきたからこうなったのである。

21世紀は、現実の方をもっと緻密に考えていく時代のように思う。現実の世界は生き物であって、その生き物自体を扱うようにする。これまでは、生きたものを言葉で切って分析していた。しかし、一回切っておいてそれを組み立て直しても、生命は復活するものではない。ばらしたものを、どう総合すれば、生命が戻るか。この論理の難しさは、線形論理の比ではない。官僚の説明には、ばらして死んだ細胞を、線形論理でつなげて、ほら生きていますよ、と妄想しているものが多い。ちゃんとした人が見れば、死んでいることは明らかである。そもそも線形論理とは、後付の説明に数学的論理を応用しているだけなのだが、官僚の説明には、後付が先行になっているものがある。これは国民に向けた無意味な作文としてわざとやっているのかもしれないが、ああいうものはろくなものではない。先行した線形論理からもれたものが、膨大な借金を作ったのである。死んだものを生きたものとみなして国の舵取りをしてきたわけである。官僚とは今ではバカの象徴である。

もともと試験の成績だけはむやみによい人間を旧大蔵省に入れておいたのに、これだけ借金が膨大になったのだから、秀才に金の使い方を任せると誤るということだろう。上に見たように、秀才は何でもかんでも線形論理化する。それで話が分かると思っているのである。彼らが線形論理の達人であることは、法律(特に行政法規)をみれば分かる。何もかも、緻密に分析して書いてある。しかし、法律をみて目が生き生きする人があるか。法律を読んで、これが世の中か、と本気で思える人はいない。世の中とはもっと複雑怪奇なものだ、世の中が法律の通りに進行しているわけがない、と言うのが普通の感想である。ペーパー試験は、線形論理能力ばかりを問い、生きた現実の微妙なディテールにうとい人間を選抜してしまう。そのこぼれたものそのものが、借金という実態を取って、日本を襲っているのである。それをまた線形論理で説明しようとして、話が解決するわけがない。必要なのは説明ではなく、努力とか、根性とか、気合とか、もっと生きたものではないか。財政論議はいいが、やるなら生きた話をしろ。