旧来型コミュニケーション能力の死

『貴殿が社会の望むような人物ではないということについて、生い立ちと環境を原因に挙げておられますが、「そんなもののせいにするな、本人の努力が足りないのだ」「社会人たるもの世間一般でいう(貴殿の説ではなく)コミュニケーション能力を高めるべく努力しなければならない」「そういうコミュニケーション能力に興味がないというのは社会における敗者の弁である」「恐怖に負けず自分の殻を破って他人と接するように努めるのが努力というものである、生い立ちがどうであろうと関係ない」等々といった反論が世間一般にはでてくると思いますが、如何にお考えでしょうか。』

上の反論は、古臭い旧型の社会人の非論理的な強弁に過ぎない。まず、一般社会人に脳科学の知見が欠如していること、生い立ちや環境次第でいかなる人格が形成されるかについての想像力が欠如している点で、むしろ彼らの方がコミュニケーション能力がないというべきである。また、努力という、汗臭いことばでしか自分の論を正当化できないのでは非論理的の謗りを免れない。「社会人たるもの〜」というのも同じで、全く説得力がない。決め付けているだけで、非論理的である。他の説明も「敗者の弁」「努力努力」「生い立ちと関係ない」というが、非論理的すぎて失笑である。要するに、奴らは「馴れ合い能力」がすべてで、それ以外何ももっていないから、「馴れ合い能力」で自己を正当化するしかないのである。つまり、ちゃんとした論理的な理由がないから、出てくるのがただの強弁にしかならない。

しかし、直截に言って、これからのインターネット社会では、電子画面上での事務処理能力が社会的成功を大きく左右し、現実レベルでの事務処理能力・折衝能力といったものは極度に矮小化され、もはや従来のように社会的成功を決定付ける要素でなくなることは、先見の明ありとされるライブドア社長の推進するインターネット一本化社会、ブログによる個人主義社会からも明らかである。

このような時代にあって、未だに過去の意味でのコミュニケーション能力にしがみ付き、コンピュータでの事務処理能力の向上に努めない者は置いていかれることは必至である。電子画面上で次々に文章を展開し、さまざまなメディアを駆使して事務を処理する能力のない人間こそが逆に社会不適合者となる。つまり、これからの社会はコミュニケーション能力ではなく、コンピューターリテラシーの方が重要となるのである。

このような社会における旧来型のコミュニケーション能力は、所詮遊びの場で有効なだけであり、仕事の場ではほとんど意味をなさなくなるであろう。そして、遊びの場だけで有効な処世術を追求する価値はない。このことは、ライブドア社長が早晩証明してくれるであろう。テレビは消え、すべてがインターネットで一本化される。そして、旧来型コミュニケーション能力は完全に矮小化される。