政治経済イデオロギー目的のメリットづくの日本社会

利益至上主義経済という政治状況において法(神話)の意味は何か。それは、政治家や役人のあくどい所業を綺麗なストーリーで包み隠すこと、利益至上主義の精神的苦痛を緩和すること、社会秩序の最外殻を防衛することである。逆に、法をそのまま実現すると利益至上主義が害されるので(個人の尊厳を追求しても金にならない)、このデメリットは巧みに回避される。現象としては、法が国民の見えないところに押し遣られ、その意味内容は一部の専門家にしか分からないようにされている。また、学校教育でも、法教育は行われないし、政治経済教育も語句の暗記に終始してその精神まで身につけさせることはない。学校教育が杓子定規で裁量性に乏しいのも、このような政治経済的現実が露呈しないようにするためである。法学自体も、法実証主義を採用することにより、そのような政治経済的現実と抵触しないように微妙に整えられている。

そのように法を最外殻に追いやることによって確保したスペースに、利益至上主義経済のための様々な社会的装置を設置していく。主たるものは、学校、マスコミ、会社、街、情報、である。利益至上主義社会において、国民の義務は労働と消費である。学校は従順に働く労働者の倫理を教え、マスコミは社会学や心理学の研究成果を利用して消費を煽る。もっとも、学校とマスコミは相互補完的に働いているところもあり、その機能は背反ではない。このようにして、従順に働きつつ、消費競争に燃える一億の個体を生成するわけである。

最終的に出来上がる社会は、一部の勝ち組に支配される労働体系と、プライベートにおいて飽くなき消費に走る一億の国民という構図である。要するに、利益至上主義という政治経済イデオロギーにとってもっとも美味しくなるようによくよく利益考量されて整えられているのである。このような社会では、教科書の内容や法はまだらに中身を抜かれた物語でしかなく、実態ではない。また、実態にすることも目指されていない。たんなる建前、お経、である。