利益至上主義イデオロギーが日本の本質

実定法体系は資本主義イデオロギーの反映にすぎず、法解釈にこれといった実質的な統一的法則はない。法とはどの分野であれ資本主義という政治経済イデオロギーの政治色を薄めただけのものである。したがって、裁判所は資本主義イデオロギーの発展に資する解釈ならばどんどん行う。譲渡担保権のように法律にない担保形式も無理矢理認めるし、相殺であれば決済が迅速になる方向で解釈する。手形の解釈ならばできるだけ外観主義を採用し金回りがよくしようとする。そのような法外在的意図が先にあって、結論はそこからすべて流出し、ただ表面的には法的イデオロギーから結論が出てきたかのように装う。刑事法は資本主義を直接間接に支えているシステムを壊乱する者を排除する道具である。法的には刑事法は社会公共に対する防衛目的のためにあるとなっているが、それはストーリーであって、実際は資本主義を保守したいのである。したがって、資本主義システムに関係ないような軽微な犯罪は不問に付すというようなことが出てくる。なぜあの事件は起訴されないのにこっちの事件はことさらに起訴するのかということはよく感じることだ。その理由は簡単で、起訴された方がたんに資本主義にとってまずかったというだけである。検察に限りなく広い起訴裁量権を与える最高裁の判断基準などはその反映である。政治経済イデオロギーが変わらない限り、法的イデオロギーの次元で正論を唱えても、変わるはずがないではないか。

日本法はもともと個人の尊厳など実現する気はなく、資本主義を保護するために存在している。憲法学者が笑われるゆえんはここにある。これを恥じないバカ実定法人間どもが大人のツラして闊歩しているのが最近の日本。政治的には金がすべてのくせに、法的ストーリーで社会は個人の尊厳の体系だとか夢見させてんじゃねーよ。