役人という概念はすでに実態との間の実質的関連性を失っており、役人と言われているものの実態は支配者なのだから、本件の場合、役人の論理で語るのはふさわしくない。つまり、公僕は余計な仕事をするなという命題は妥当しない。わが国の役人は、事実上、全知識を有する神のごとき存在として社会全体を双肩に負っているのだから、義務範疇などなく、無限に自己裁量で国を動かせるという規範が妥当している。そうすると、日経社説がいうごとき、余計な仕事などはないであろう。これもまた底の見え透いた茶番である。こんな社説を書くだけで金がもらえるなんてひどすぎる。
要するに、わが国で役人と言われている者は、現実には学歴社会のトップとして国を請け負っているプロであって、一見明白かつ重大な非違行為でなければ責任を問われないという義務範疇が確立しており、こんなものが変わるわけがない。役人には定まった義務があるかのごときくだらぬ社説を書く新聞など読む価値があるのだろうか。素直に「今日も役人様が国を太平無事にした下さった。社会は平和です」と書いたらどうか。私はもうこの国の足の引っ張り合いと茶番にはうんざりなのだ。

中央省庁の件については、最近タクシーがどうとか、公務員改革がどうとか言われていますが、これも国民のガス抜きをするためにマスコミが作ったのでしょう。こういう虚構を作って流しておかないと国が持たないのですよ。この国はいろいろなものを欲張って詰め込みすぎていますから。
なお、日本のNatur der sache(事物の本質)にかんがみれば、一生懸命勉強して数々の試験を突破し、日本列島を隅々まで管理して安定を維持している官僚が、タクシー運転手からビールをもらうくらい当たり前のことであって、むしろその程度で済んでいる事態に驚かねばならないと思います(税金でいい思いをしてもよいのは当たり前でしょう)。言い換えると、この国は別の原理に支配された正義が妥当しており、西洋から輸入して作った「個人の尊厳」に基づく正義体系は、形式だけでなんら妥当していないので、後者の体系で社会を見ると常に欺瞞的になるのでしょう。
同意されたのなら、明日からはもう少しsacheに即した議論を展開されてはどうでしょうか。たとえば、社説を見て、「まったくそのとおりだ」「少し異論はあるがおおむね同意だ」では、マスコミが垂れ流す自己追認と変わりありません。ブログが面白いかどうかは、相対的なコメントをしてすませるそこの見え透いた茶番か、それとも実質を見抜いて世間にぶつけるものか、で決まると思います。後者のものに「陰謀」などのレッテルを貼っているのではマスコミと変わりありません。
国の運営を一括請負している役人にこの程度の役得は当然であって、未だ役人に付与されている特権の範囲を出るものではない。社説はアメリカの方をむいて書いているのか。ああ、くだらない国だ。