憲法判例などを読んでいると、いちいち怒りを禁じえない。なぜなら、どうみても不合理なことが、堂々と憲法解釈などとして発表されているからである。たとえば、昭和女子大事件の判断などを見ると、憲法的な解釈として「学生は建学の精神に基づき入学するものであるから」などと書いてある。はあ?何が建学の精神だ。われわれは訳も分からず受験勉強をさせられ、偏差値輪切りで無理矢理どこかの大学に詰め込まれるんじゃないか。建学の精神などいちいちみて入学する奴がどこにいるか。日本の世間に横たわっている「真の憲法」からすれば、「学生は親に言われるがままに専ら高校三年次の模擬試験偏差値を基準として適当な大学に入学し」が正解である。その無理矢理詰め込まされた大学でちょっと政治活動をすれば退学処分で、しかも裁判で争っても勝てないとは一体どういうことだ。完全に体制の都合通りじゃないか。これで何が民主憲法か。へそが茶を沸かす。

憲法典のような、国政の基本を定め、人々の人生を左右する法が、これほどにも現実的妥当性を欠いているのは、致命的な背理である。ルールは妥当性を欠いていても、運用の段階でつじつまを合わせようとする配慮があればまだみていられるが、昭和女子大事件の判断のごとき、まったく体制の恣意としか思えない。学生の置かれた現実的立場を考慮せず、専ら似非憲法の文言を形式的に適用しただけの幼稚極まりないものであって、法とはその国そのものだという格言からすれば、こんなものがまかり通っているのは、日本が致命的に終わっている証左だろう。