合理的というのはバカのこと

rationalの訳語はそろそろ「馬鹿な」にすべきじゃないかね。「合理的な行動」なんて言われるけど、それは馬鹿な行動の間違いだよ。消費者としての合理的な行動、なんて言われるが、それは経済学者が消費者の行動を計算したいだけ。消費者が計算に乗るように行動してくれないと経済学者が困るから、合理的に行動しようなんて言ってるだけで、言われているような「合理的行動」が、本当によい行動かと言うとそれは別問題。

消費者だけじゃなく、受験、就職、結婚、何につけてもそう、合理的な受験、合理的な就職、合理的な結婚、うんぬんが必ずしも「合理的な結論」をもたらすわけじゃない。人生も社会も合理的な部分と不合理的な部分を混ざって成り立っている。そういうものがなぜ合理性だけで解明できるか。はじめっから間違ってるのである。

合理的の定義によるでしょうね。私の合理的というのは「最終的に生きた結果が得られること」です。この定義によると、「金もないしAの方が安いからAの方に行く」
のような確率論的に一般性のある行動を積み重ねても、生きた結果にたどり着くとは限りません。たとえば、7時間睡眠が合理的とされるから7時間睡眠し、ご飯と味噌汁と納豆が栄養があるから毎日それを食べ、毎日定時に登校し講義を聞いて帰って来るというのが社会的に合理的な学生の一日とされているからその通りにし、自宅では予習復習をするのがよいからそれをちゃんとやり、23時に寝るのが合理的だから23時に寝るというような「合理的な」行動を繰り返していると、逆に「社会に飼い殺され死んだ人間が出来上がる」という不合理な結果を生じます。つまり社会でよいとされているぶつ切りの「合理的行動」を単純に積み重ねても生命は生じないということです。逆に言えば人間も人生もそんなに単純な仕組みではないということです。私は何を組み合わせるにせよ個々の行動の全体が生命として生きていることを合理的と呼んでおり、古臭い経済学や心理学の局所的結論など信じていません。あれは上から人間を都合よくコントロールするために支配者が好んでいるだけでしょう。かけがえのない個としての生のいとなみを、支配者が用意した型に自分からはめていくようになったら終わりです。個が個として生きていることが自然と社会に連続化されていくシステムが最適であって、自分から機械になろうとしている一部社会人はいかれていると思います。


だから「ラーメン屋がAとBの二つがあるとして、金もないしAの方が安いからAの方に行く」にしても、あえてBに飛び込んでラーメンを注文し、食べて、勘定するときに「あ、お金がないや、何でもしますから」「じゃぁそこの皿を洗ってくれ」と言われて洗っていたらそこの店主と気が合い、友達になり、人生が豊かになった、とすれば、それは安いAの方に行って食事を済ませるのより合理的結果が得られたというべきじゃないでしょうか
まあ確率論的には多くの人はAを選択するでしょうし、その限りでは合理的とも言えるのですが、所詮その限りでは、なのです。Bに言ったからといって一概に不合理とも言えないわけです

都市の人間は後者の生きた合理性、豊かな合理性をみうしなってるんですよね。都市的インフラにがんじがらめにされ、都市心理学的に超短期的、視野狭窄的な合理性しか承認しなくなっていくように仕向けられています。それがはめられているとも知らずに。
21世紀は、私のいうような意味での生きた合理性を回復していく世紀だと思います。死んだ合理性(短期的確率論的単純計算的合理性)はもう捨てるべきですね。


基本的に教科書って奴は間に合わせの証明載せとけばいいんでこういうウンコな証明がいっぱいあるんですよ。球の体積公式をまともに証明しようとすると積分を使うから初等教育では扱えない。だからこんな理科的な証明でごまかしてるんです。
まあ数学教育の本音が、事務処理得意なサラリーマンの大量生産にあるということが教科書のこの現象からも読み取れますがね、なげかわしい!!!
例えば入試問題なんて数学にはまってたら確実に堕ちますからね。試験にはポイントっつーやつがあってそれに気づいたりうまくかわしたりしたいと合格点に届かない。
入試問題ってのは組織で歯車になれるサラリーマンを選抜するための試験ですよ、多かれ少なかれ教科書はその基本な訳でとても自由に数学で遊ぶって雰囲気ではない。